ROKU's Daily Life

あんなことやこんなこと

『絶滅危急季語辞典』

 

絶滅危急季語辞典 (ちくま文庫)

絶滅危急季語辞典 (ちくま文庫)

 

歴史の中の一つの事件は、さまざまな角度から認識され、評価され、語り継がれていくが、二十六聖人と呼ばれた人たちの二十六の人生に思いが至る時、この季語の存在意義を受け止める。歴史の教科書でこのような事件がありましたと認識することと、季語として「二十六聖人」の心に触れることは根本的に違う種類の行為だ。 (P79)

 

言葉が消えるということは、やがてその文化も消えていくということだ。(P98) 

 

彼女たちの言い分は、一人一人が頑張ることが大切なのだから、作品に優劣を付けわざわざ子供たちを傷つけることはない、ということらしかった。私は唖然とした。

俳句は短い。短い故に、ちょっとしたコツを覚えると、誰でも大ホームランの一句が作れる可能性を持っている。普段は評価され難い子供たちが、十七音の作品を褒められ、それをきっかけに小さな自信を手に入れることがあるというメリットよりも、選ばれなかった者が傷つくかもしれないというデメリットを重視することが、教育的配慮だと彼女たちは 、本当に信じているのだろうか。いや、万が一傷つく子供がいたとしても、この程度の傷に対する治癒能力も持たずして、一体どうやってこの社会を生き抜いていくのか。(P280)

 

『アナキズム入門』

アナキズム入門 (ちくま新書1245)

アナキズムは、権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」(鶴見俊輔『身ぶりとしての抵抗』)

 権力が、一部の人の利益にだけ配慮したり、選挙制度も自分達に都合よく変更したりするのなら、そもそも何のための権力? …という疑念が常にあって。
むろん19世紀〜20世紀初頭と現代では同じように理念を語れない部分もあるけど、まずは「権力のない社会」を想定してみるところから始めるのも悪くないんじゃないか。

そもそも「はたらかないで、たらふく食べたい」(by栗原康)のである。当たり前のように、お金とご飯を食うことが結びついていることがおかしい。関係ない。お金はお金で、ご飯はご飯だ。

私たちは働くけれど、それはお金のため《だけ》ではない。社会の一員として、できることをしたいからだ。別にその報酬は仕事をした相手からもらわなくてもいい。そもそも報酬なんてなくてもいい、ちゃんと生活してさえゆければ。つまり、「お金はお金で、ご飯はご飯だ」。
 
 

現代史

こないだTVで

「サウンドオブミュージック」の
トラップ一家について放送していた。


それを見ていた長男が
ヒトラーって悪いヤツ?」
と言った。


「うん。ナチス時代のドイツはひどかった」

「ボクらは日本で良かった」

「当時は日本政府もナチスと手を組んでた」

「えっ…?」


息子は絶句したまま私を見ている。


「どうした」

「お父さん、大丈夫だったの?
 それともヒトラーに協力したの?」

「ちょちょちょちょっとまて」


(『デイリー・ロク』2001.5.14)

 

 

早く帰って妻と話そう

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今日は午後6時過ぎに帰宅した。妻も早く帰れるシフトだったので、夕食を一緒に食べることができた。
息子が二人とも家を出て一人暮らしを始めて以来、ずっと妻と二人なのだが、夕飯を同じ時間に摂ることはそれほど多くない。

スーパーの惣菜を並べただけの、ささやかというよりどちらかといえば貧相な食卓だけれども、「木曜日は安くなるから」と、今日妻は私の好物の刺身を買ってきてくれた。

「このてんぷらパサパサしてる」とか、
「今日帰りの列車が遅れてさ」などと、たわいもないことを喋りながら、そしてテレビもちらちら見ながら食べるのである。

子供が巣立った後また二人に戻った夫婦は、もはや新婚時代のような夢や熱情は残っておらず、それまで話題といえば子供のことばかりだったので、顔を付き合わせても今さら話すことなどないのである。

しかしそれでも、くだらない話題でも、なんとかひねくりだして話をする。てんぷらが不味いねと相づちを打つ、その瞬間が愛おしい。列車が12分遅れた理由に二人で首を傾げる、その瞬間はかけがえのないものだと思う。

いずれ別れは来る。

私が先か妻が先か、それはわからない。わからないことは悩んでもしょうがない。
できることは、二人の物語を日々紡いで行くことだけだ。